向こう側に会わせたくないと言われた星彦が眠っている。バッと、気持ちが走るままに分厚いガラスに張り付いた。
ベッドの向きで足元から見えた寝姿。聞いた通り、苦しんでいる様子は無い。心底ホッと息をついた。枕元にいる満夜の手で時々しか顔は見えないが、どうやら口元にあった酸素マスクは消え、鼻からのチューブになっていた。
その星彦が動く様子はない。周りに静寂と落ち着きも感じ、穏やかに寝ているのだと思った。
では、なぜ面会謝絶と言われるのだろう・・・。
芹一ではないが、どうして?と問いたくなりそうな気持ちだった。
目線を変えると、中へ入っている薫が天獅に耳打ちしている。天獅が頷いたのと同時に満夜も振り返り、知宏へ悲しい顔を向けてきていた。
気付て知宏もペコッと頭を下げる。俯いた下で唇を噛んでいた。会わせたくないと言われているのに来てしまった居心地の悪さは覚悟の上。
当然の如く、病室まではやはり通させてもらえないらしい。天獅の方が廊下へ出てきて、知宏は改めて「すみません」と頭を下げた。
「知君…」
その顔色は悪かった。看病の合間をぬっては仕事もこなさなければならいようで、ジャケットを脱いだベストスーツ姿にも疲れが見えていた。
「ごめんなさい…ここまで入ってきてしまって。あの…」
星彦の容態を訊いていいものか、今さっき薫にした留学の話はどのタイミングで切り出そうかを迷っていると、星彦へ向かう中の薫に目を奪われて追ってしまう。
手には阿久津の絵がある。満夜の隣で屈み、「星彦君、聞こえてるかい?」と声掛けをしていた。
寝ている星彦に何故と、する理由が分からない。絵を渡すなら起きた時にと考えるのが普通だと思う。だからその不可解さに知宏は喋ろうとしていた言葉を全部飲み込んでしまった。
「星彦君。お友達が来てくれていたよ。それで阿久津君、あ・く・つ君がね、これを君にあげるって。ほら、綺麗だろ。見てるかい?」
変に大きな声でゆっくりと喋っている。明らかにいつもと違う、まるで小さな子供か年寄りにでも話し掛ける様だった。最後の、見てるかい?にも違和感がある。それ以上に、ベッドの星彦の様子がおかしいと知宏は気付いた。
「…ホ…ゥ?」
眠っていると思っていた星彦は薄く目蓋を開けていた。けれど全く生気の抜けた表情で、どこを見ているか分からない。しかもまるで動く事のない口からはだらっと涎が垂れている。それを満夜がタオルで仕切りに拭いていた。
全ては痛みを完璧に取り去る薬がもたらしている事。星彦は目の前に来た薫に関心も示さず、気だるい眼差しのまま声掛けにも反応を見せていない。
次第に知宏にも面会謝絶の意味が飲み込めてきて、厳しい表情が眉を寄せさせた。
薫の声はまだ続く。
「星彦君。見てごらん。これは何か分かるかい?」
更にもっと。視力の悪い目の前へ差し出された黄色い絵に星彦は初めて何か見ようとしている僅かな動きを示した。半分の薄い目で黒目を仕切りに動かしてはいる。絵を見つめる視線が泳がなくはなったが、変わらず涎がたーと垂れていた。
大人達は力を落とす。この投薬が星彦の意志を無視した自分達のエゴだったのかと考えてしまう。でもそれ以上に何より痛みをとってあげたかった。
「知君。…星彦は今はね、誰を見ても何を見てもあんな反応しかないんだよ…薬の影響でね。頭の傷が回復さえすればこんな薬も必要じゃなくなる。そうすれば元の星彦に戻るから…そうしたらまた来てやってくれ」
術後からまた星彦は変わり果ててしまった。今度はまるで廃人のように・・・。知宏は愕然とする思いを必死に隠そうとしていた。けれど無意識に握る拳が足の付け根でわなわなと震えてしまっている。
「く、薬、…ほんとに…薬の所為ってだけなんですよね?」
「ああ。……今朝、君達が帰った後だったかな。酷く苦しんでね…薬の効きが悪くて可哀想だった。どうしても楽にしてやりたくて新しい薬を…」
「そう…だったん…ですか…」
一見穏やかに見えていたその姿に隠される現実。その代償もまた可哀想な姿だったと後悔が見えている。
「荻島先生から星彦が病院以外の薬を飲んでいなかったか訊かれたよ。薬が効かなかった要因かもしれないんだが、知君なら何か知っていたりするかな?」
少し頭の重みを押えるような気だるいポーズで天獅は訊いていた。
「え……、そう言えば…痛み止めを買って飲んでいたと聞きました。何ていう薬だったかまでは知りませんが」
「そう。ありがとう。…すまないね。今も他のお友達と来てくれたんだって聞いたよ。折角来てくれたのに悪かったな。でも…俺はね、こんな星彦を誰にも見せたく無かったんだ…」
「おじさん……」
自分を責めている天獅に知宏は首を横に振った。天獅がどれ程星彦を可愛がっているかを知っている。質の良い服を着せ、育ちの良いお坊っちゃんらしい清潔感を纏わせ、ヤクザの子と言う香りがどこにも立たないよう努めていた事も。
知宏はもう一度、ガラスにへばり付いて星彦をじっと見つめた。そして思った事を口にする。
「おじさん…。星彦は分かってます。今、目の前にいるイトコ先生の事もおばさんも。それにあの向日葵の絵が部活の最中に見た自分の大好きな絵だって事も、何にも言えないけど分かってますよ。だってほら、あんなに嬉しそうに眺めてるじゃないですか…。今はその薬の所為で意思表示が出来ないだけで、でも全部分かってるんです。だから反応が無いなんて思わないでやって下さい。あ、ほら今、見ました?右手が少し動きましたよね?…描きたいんだ、アイツ。描きたいんですよ」
「知君…」
天獅にはその微妙な動きが分からなかった。一瞬の事だったのか、それとも知宏だけに見えた夢幻なのか。
「それとおじさん。ご心配頂いていますが俺、やっぱり留学は見送る事にしました。こちらの大学を受験します。決めたのは俺の意志です。そうしたいって思ったからそうします……」
「知君、馬鹿を言うんじゃないっ!…」
天獅は懸念していた張り詰める思いに、知宏の両肩をきつく掴んで向き直させていた。
「それは君だけの問題じゃないだろ。ご両親は納得されているのか? 本当に星彦の事が少しも君の進路に影響して無いって言えるのかい?」
「…おじさん」
「君が小さい時から星彦に良くしてくれているのはありがたく思っているよ。今までもたくさん世話になってきた感謝は言い切れない程だ。でもしっかり考えてくれ。君の一生を左右する事になるかもしれないんだぞ」
「待ってください。医者を目指す気持ちに変わりはありません。受けるのは医大です。時間はかかるかもしれないけどその夢は変わってません」
そこで終わらせれば良かったのかもしれない。でも抑え続けていた気持ちの言葉が衝動的に溢れ出る。
「……おじさんには理解してもらえないかもしれない。多分、俺の両親にも。でも俺は…星彦を…星彦が好きです。ごめんなさい。おじさんが見せたくないって言った今の星彦だって俺には十分すぎるほど星彦なんです。心から愛しいと思っています」
真剣な眼差しだった。受けて、狼狽えているのは天獅だけ。
「何を君は…こんな時にそんな。…君は俺に何て言わせたいんだ」
「すみません。星彦の病気でおじさんは大変な思いをされているのに…。でもこんな時だからこそ俺、支えになりたいんです」
そっと視線を星彦へ戻す。ベッドの上の様子は先程と何一つ変わっていない。薄く開いている瞳があどけない表情のまま一心に絵を見つめている。
「星彦は…星彦は君に何て答えを?」
「いえ。ホウにはまだちゃんと気持ちを伝えた事はありません…」
「そう。星彦はずっと桐クン桐クンと言ってばかりもいたしね。…俺はてっきり」
「それは俺も。…星彦から生方が消える事はないでしょう。…それに、あいつの中での俺は一生、幼馴染みかもしれない。けど、俺にはそれ以上の気持ちがあるとおじさんに知っていてもらいたいんです。それを踏まえた上で、俺が決めた事だと分かってもらえますか?」
「知君…。そんな事……君は将来を一体…」
そこまで話した天獅がフラッと体をよろめかしてしまう。心労が相当に溜まっていた。
「おじさんっ。大丈夫ですか?」
額を押え、倒れこんだ天獅を支える知宏の腕。しっかりとしていて、頼り甲斐のある力を感じさせる。この子はもう立派な男なのだと実感せずにいられなかった。
「すみません、こんな話をして余計な心配を増やして…」
「いや。……でも今日のところはすまない。我ながら情けないが、勘弁してくれるか」
それはこの場は帰るべきなのだと自覚させられる。病気に苦しむ子を持つ親の苦労を目の当たりにしては意に添うべきと思った。
「…はい。また出直します。日本を離れませんから」
「ここは…ありがとう…と言うべきなのかな」
ニッと笑った顔も酷く疲れている。でも困らせてしまった事は申し訳なく思うが言ってしまった後悔は無い。
知宏はもう一度、心の中でガラスの向こうの星彦へ思いを飛ばす。
星彦…頑張れ。負けんなよ。
拙い眼差しが一生懸命見ているあの絵の向日葵のように、笑うお前をまた見たいんだよ。
その翌日も、次の日も、知宏は病院を訪れるが面会謝絶に変わりはない。
星彦に会えず帰った寮も随分と寮生の帰省が進み、ガランとした空気が余計に心を空かせた。
二階へ上がり階段から直ぐの部屋。扉は開いていて中では誠志郎が簡単な荷造りをしていた。
「今日、帰るんだな…」
「あ、おかえり。どうだった?星彦。会えた?」
苦い笑みで首を振る答えに「そう」と残念そうに誠志郎は言う。
「俺も星彦に会ってから帰りたかったけど、じゃあ…ちょっと無理みたいだね」
「誠志郎んトコは、ホントはもっと早く実家に帰る予定だったんだよな。…悪かったな」
星彦に面会が出来る日を待って誠志郎は帰省をずらしていた。しかしそれも今日がリミットだった。
「なに謝ってんだよ。俺が勝手に居残っただけさ。ウチは、正月は父親の田舎に行っちゃうもんだから…」
「田舎って九州だったっけ?」
「うん。年明けに戻ってきた頃には星彦が元気になってくれてる事を願うよ。知宏はどうするの?」
「俺は…お蔭さんで家からも病院へは通える距離だから」
「……って言う割には迷ってない?家へ帰るの」
立ち上がった誠志郎へ机の上にある寮のファイルを手に取った。
「これ。あとは類哉先生にお願いするんだけどさ、外泊届け出てないの、星彦と知宏だけだよ。星彦はまぁとして、…知宏、やっぱドイツ行きを急に止めたりして親と揉めたりした? 帰り辛いんじゃないの?」
気を落とした顔をする知宏に言い当ててしまったと誠志郎も同じような表情になる。
「うん…帰り辛いのはそうなんだけど、揉めたりはしていないよ。むしろ親は歓迎ムードさ。…元々、俺が医者になる事にあまり賛成してないんだ。医者も悪かないけど会社を継がせたいのが親父の本心なんだよ」
「そっか…知宏の家ったら一流商社だもんな。そりゃあ、知宏が継いでくれたら頼もしいって思っちゃうかも…あ、ごめん」
「いや。……じゃあ、俺の外泊届けは直接、舎監へ持ってくよ。さっき類哉先生って言ってたけど、荻島先生は?」
「うん、それがさ…荻島先生は帰宅組になるらしくて、暫らくは類哉先生が舎監を代行するらしいんだ」
「へぇ、随分急だな。何だろ」
「さぁ。どうしてなんて訊けないし」
「だよな…」
いつだかの写真騒ぎといい、何だか学園に良くない風が吹いている気がする。
そしてふと見た星彦のベッド。棚の上にあった小瓶に目が留まった。
「あれ、これって中身減ってねぇ?」
「え? 星の砂かい? ごめん、気がつかなかったや」
そう言われて、大切な事を思い出す。
「そうだ。あのさ、星彦がちょいちょい飲んでた薬ってどんなのだったか、誠志郎知ってたりしないか?」
「え〜? 分かんないけど、よく引き出しにしまってたのは見たよ。入ってるんじゃないかな?」
「あ、マジ?」
知れた仲の知宏はそのまま引き出しを開けた。そこには一般的な痛み止めの箱があった。誰もが飲めるこれが、星彦の体を壊していたとは考えにくく頭を悩ます。
そうして詳しい事は何一つ分からぬまま、時は過ぎる。
一方、面会を断っていた天獅もすっかり体調を壊してしまい、自身が星彦との接触を遠慮しなければいけなくなっていた。
「満夜、俺の事はいいから早く行ってやってくれ。今日は大きな手術があって部屋を明け渡す事になっているだろう。いくら完全介護とは言え、星彦が不安がっているといけない」
「ええ。それじゃあ、お食事、ここに置いてゆきます。少しでも召し上がった方がいいわ、ね?」
手術から四日が経過しているこの日、満夜が病院へ訪れる前のこと。
知宏は日課の如くICUの受付にいた。
「今江と言います。皆川星彦の友人です。彼はまだ面会謝絶でしょうか?」
「あら、聞いてないんですか? 皆川さんなら今朝、一般病棟に移られましたよ」
知宏は「え?」と驚きながらも、それが神の声にも聞こえていた。
「星彦、一般病棟に移れたんですか? それじゃあ経過が良くなったって事ですよね?」
顔に光の笑みがさしていた。嬉しいと良かったが何度も何度も胸を弾ませる。
「ええ、まぁ。……でもご面会が出来るかは上の病棟でまた訊いてみて頂けますか? ICUは術後の患者さんで直ぐにいっぱいになりますので皆川さんには脳外科の個室の方へ移って頂いたんです…。あの、御身内の方もいらっしゃってましたからそちらで」
「はいっ!はい、ありがとうございます。お世話になりました」
走り出す知宏には経過がどうとかあまり深く考えられなかった。ともかく一般病棟へ移れた体なら昨日よりは良い筈、と短絡的に心が弾んでいる。
表情は嬉しさで溢れていた。待っているエレベーターの昇降が異常に遅く感じていた。壁の案内板が示す脳外科病棟は11階。
パンポンと音を立てて到着したのは下向きのエレベーターだった。待っていた人達が乗り込む様を何気無い気持ちで見ていると、その奥に居た人物と目が合う。
途端、それまでの知宏の気持ちは打ち消される・・・。
「…瀬…竜…?」
まさか。何かのみ間違いであって欲しいと思う動揺に、閉まっていく扉の陰で笑みが消えた。
――「御身内の方もいらっしゃってましたからそちらで」と受付の声が言っていた。てっきり身内を星彦の両親だと思って疑いもしなかった。
あの兄が星彦に会いに来ていた・・・?
「じょ、冗談じゃねぇぞっ」
その足は迷うことなく、階段を選んで駆け上がっていた。

